東上州三十三観音霊場   第一番〜第九番
 
第一番 第二番 第三番
大同山 宝福寺
<大同観音>
無量山 円満寺
<岩田観音>
補陀落山 観音寺 花蔵院
<除川観音>
 
如意輪観世音菩薩 千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
縁記によると、建保ニ年(1214年)に親鸞上人が聖地を探して上州に足を踏み入れた際、最初に見つけたのが宝福寺だったとある。

普段は無住で境内に入ることもできません。

県重文の性信上人坐像がある。
性信上人坐像は像高84.5cm肩幅40cm、鎌倉時代中期の作品で宝福寺所蔵。性信上人は親鸞聖人の弟子24華中の第一高弟といわれる。

ご朱印は実相寺さんで頂きます。
専用の納経帳も購入できます。
縁記によると、天平勝宝七年(755年)僧・行基によって入仏式が行われた。

安政四年(1857年)、岩田の大火の際に類焼。
2年後、日光中禅寺から移築されたのが現在の観音堂。

観音像は光背までの高さ160pの檜の寄せ木造りで県の重文。

本尊は20年に一度開帳され、普段は等身大の前立千手観音が祀っれている。

ご朱印は安勝寺さんで頂きます。
慶長四年(1599年)の創建。

渡良瀬川の清流に流れたきた観音像を引き上げお堂に祀り、後に花蔵院と名付けたという。

文化三年(1806年)の近在の大火で伽藍の全部を焼失。

天保四年(1833年)、観音堂を再建した。

本堂は再建中なのでしょうか、観音堂だけがぽつりと建っていました。
平成23年11月26日 平成23年11月26日 平成23年11月26日
 第四番 第五番 第六番
一空山 明善寺
<大島観音>
終南山 見松院 善導寺 高鑰山 釈迦院 遍照寺
(旧観音院)
 
如意輪観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
創建は不詳。

観音像は行基作といわれ、安産の観音様として祀られていたが、盗難に遭い今はない。

観音堂は本堂と離れた場所にあります。

何故、離れているかは大水によって流されたという説、紛争をさけるため観音像だけを現在の地に移したという説などさまざま。

ご朱印は吉祥寺さんで頂きます。
和銅元年(708年)、僧・行基により開山。

戦国時代末期、榊原康政が赴任すると同時に全盛を極め、諸堂を建立。

正保元年(1644年)に三代目・榊原忠次が奥州の白河に転封するとき、徳川家光より百石、諸役免除の特権をもらった。

榊原康政の菩提寺でもあり墓があるのですが、地震のためでしょうか墓標が倒れていて少しの面影を残すだけとなっていました。。
鎌倉初期に新田氏の祖、新田義重が明和村に開基したと伝えられる。

天正十八年(1590年)、現在地に移転した。

本堂の内陣に本尊の不動明王が祀られており、その隣に榊原康政が信仰したという十一面観音が安置されている。

北関東三十六不動尊の第十ニ番札所でもあります。
平成23年11月26日 平成23年11月26日 平成23年11月26日
第七番 第八番 第九番
明王山 蓮葉院 日向山 宝生寺
<日向観音>
谷中観音堂
<谷中観音>
 
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
天正ニ年(1574年)の開基。

大正三年(1914年)、近くの万日堂を合併し、昭和31年に現在の本堂を新築した。

堂内には本尊の大日如来と共に聖観音が祀られている。

札所本尊の聖観音は50pほどの座像、霊場開設時は1mの聖観音だった。

ご朱印は観音寺さんで頂きます。
寺伝によると、いつのころからか山伏が日向村に住み着いたが、村に寺がなかったため、自宅を寺とし宝生寺を創建したと伝えられる。

天保十四年(1843年)、近在の農家より出火し、その類焼により堂宇を失う。

観音像は弘法大師作と伝えられ、5pほどの金仏であったが江戸時代に紛失、現在の観音像はその後新調されたもの。

丁度境内にいたご住職にご朱印をお願いすると、
「これ上げる」と手に持っていた沢庵を頂きました。
おまけに観音堂でお経まであげて下さいました。
縁記によると、新田義貞とともに戦死した家巨、中野景春の妻が暦応四年(1341年)、庵を建てたことに始まる。

古くから「子育て観音」とも呼ばれ、休日には子供の育成を願って大勢の参拝人が訪れる。
(そばの明言寺のこぶ観音は新上州の十番札所です)

現在は無住のため永明寺(邑楽町中野)が兼務。

ご朱印はすぐ前の御休憩所に置いてあります。
平成23年11月26日 平成23年11月26日 平成23年11月26日
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