東上州三十三観音霊場  第十番〜第十八番
 
第十番 第十一番 第十二番
赤城山 要津院 正眼寺
<小泉観音>
瑞蓮山 浄光寺 笑岩山 恵林寺(旧清水寺)
<矢場観音>
 
聖観世音菩薩 千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
永録ニ年(1559年)の開基。

寛永年間(1624〜44年)に寺として整えられ、龍泉院の2世和尚が開祖となった。

本堂は昭和61年に再建されたもの。

最初の聖観音は行基作とされるが行方不明、現在のものは昭和初期に信者が寄進したもので、本堂左手の厨子に安置されている。

ご朱印は龍泉院さんで頂きます。
最初、天台宗であったが、天正十ニ年(1584年)、小田原・北条氏が金山城を攻めたときに全ての伽藍を焼失。

その後、再建され曹洞宗に改宗した。

かつては寺域は広く、観音堂は300mほと離れた場所にあったという。

現在は本堂の西側に観音堂と十王堂が建っている。
通称「矢場観音」と呼ばれていた観音堂は、相場家が管理していたが、平成15年に取り壊され、近くの恵林寺に合併された。

境内の右側に目薬師を祀った古い薬師堂と並んで新しい観音堂が建っている。

本堂は曹洞宗の寺院らしい雰囲気を持っています。

ご住職は不在、後で送って頂けるとのことでお願いしてきました。
平成23年11月26日 平成23年11月26日 平成23年11月26日 
 第十三番 第十四番 第十五番
孤峰山 江徳寺(旧観音寺)
<台之郷観音>
救世山 松響庵 観音山 米珠山 多聞院 吉祥寺 松島観音堂
<松島観音>
聖観世音菩薩 馬頭観世音菩薩 馬頭観世音菩薩
元和ニ年(1616年)の創建。

かつての十三番札所は観音寺、大同元年(806年)の建立。

東武縁・韮川駅の南にあったが、昭和41年、駅周辺の開発事業のため同寺に合併された。

寛政年間に焼失し、その後再建されたが昭和16年(1941年)に再び火災に遭った。
現在の本堂は昭和24年(1949年)に再建されたもの。

観音堂は境内の左側にあり、行基作と伝えられる1mほどの金色の聖観音像が安置されている。
かつて救世山・松響庵という寺があり、約30pの馬頭観音が安置されていたが、いつの頃かお堂が焼失。

本尊は木造の聖観音に姿を変え、明治初年頃に大光院・吉祥門近くの教授院に救世観音という名称で移されている。

現在では小高い山の上に観世音と彫られた丸石と先の欠けた石地蔵が祀られている。

ちなみに大光院はガイドブックには載っていませんが特別霊場になっています。

ご朱印も教授院さんです。
平安時代後半、源義家と戦って敗れた安部貞任一族の松島美濃守貞俊が、仲間の成仏を祈るため家に伝わっていた聖徳太子作の観音像を背負って諸国を巡業した。

新田荘に来た時、故郷の松島と少しも違わない景地があったので、感激して堂を建立して観音像を安置した。

縁記によると霊場開設寺は聖観音であった。

住宅の中にありますが、以外と簡単に見つかりました。

ご朱印は吉祥寺さんです。
平成23年11月26日 平成23年11月26日 平成23年12月23日
第十六番 第十七番 第十八番 
大悲山 観音院 徳性寺
<出世観音>
広谷山 香華院 儀源寺
<亀岡観音>
御室山 金剛院 円福寺
<別所観音>
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
縁記は不詳、元和年間(1615〜1624年)に再興される。

第2次大戦で後継者になるものを失ったため現在は無住となっています。

太田市細谷町の教王寺が兼務している。

境内の墓地群の中に地元の飛行機王、中島知久平やその他の著名人の墓があるため「出世観音」とも呼ばれている。

ご朱印は観音堂に頂けるお宅の地図が貼ってあります。
新田義貞の妻、勾当内侍が庵を結んだことが寺の始まり。

室町時代後期には荒廃したが、元和年間(1615〜1624年)に中興、勾当内侍の尼名、儀源比丘尼にちなんで儀源寺と改名したという。

観音堂は本堂から1qほど離れた所にあります。

本尊の聖観世音菩薩坐像の胎内には新田義貞が鎌倉討伐のために利根川を渡った際、中州に現れたという亀の背に乗った観音像が治められている。

曹洞宗のお寺さんらしく地味です。
新田氏四代・新田政義の開基。
観音堂は元録十四年(1701年)に再建されたもの。

結構大きなお寺さんですが、現在は無住で十九番・正法寺さんの住職が兼務されています。

ご朱印は総代6人で持ち回り、正法寺さんで総代の方の連絡先を教えて頂けます。

その境内には円福寺(宝泉)茶臼山古墳(別所茶臼山古墳はとも呼ばれる)があります。

市内では天神山古墳に次いで第2位、県内でも第3位の規模を誇っています。
平成23年12月23日 平成23年12月23日 平成23年12月23日
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